▽ 対 「いじめ」 に私たちのできること「いじめ」 に対して、私たちのできること。 ( 2006/10/17 ) いま、この時代に、我が子を守り、育てていくのに、 保護者だけでは、どうしようもないことを痛感している。 放任でなく、過保護でもなく、過干渉でもない、 見事な適正距離を、どうやって測るというのだろう。 そして、こと起きたとき、 どうやってその距離を保ち続けられるというのだろう。 親が、我が子の置かれた状況を、如何にして正確に、公平に識ることができるのか。 識ることができたとして、子どもたちの世界の何処まで踏み込めるのか。 直接踏み込んでいって、それが根本的な解決になるのか。 子どもたちの間で起きた事件に対する、 子どもたちの自己解決の力は、どのように培われるのか。 そして、何より、親は我が子のこころの何処まで寄り添えることができるのか。 頑張っていつかきっと乗り越えよう。 死ぬほど辛い学校なんて、行かなくてもいい。 いつまでも、何処までも、あなたを信じ、あなたを愛してる。 あなたはあなたのままでいい。 決して死なないで。 そんなような想いを言の葉に乗せて、本当に我が子に届くのか。 自分は、そんな関係性を我が子と築いて来たのか。。。。 どんなに想い惑い、どんなに自問自答を繰り返しても、 自分たちの(狭い見識の)なかでぐるぐる舞い踊っているだけ。 我が子の事情。 ほかのお子たちの事情。 お子たちが遭遇する事件も、その背景も、克服しようとする力も、 お子たちそれぞれに違う、から、本当に難しい。 だから。 保護者は学校へ足を運ぼう。 忙しくても。 例え子どもたちが嫌がっても。 参観日、懇談会、講演会、学習発表会。。。。 機会逃さず、学校へ足を運ぼう。 自分の眼でしっかり、我が子を観、我が子の友だちを観、 先生を観、授業の進め方を観、 我が子をとりまく空気を肌で識ろう。 毎回、毎回、全保護者が学校へ足を運び、 お子たちを学校を先生を観、三者三様の様々な情報を受け取り、 様々な傾向、様々なシグナルに気付こう。 そして、保護者同士が顔見知りになろう。 懇談会やPTA活動に参画し、親しく情報交換ができるようになろう。 先生の悲鳴を感じたら、動けるような保護者であろう。 お子たちの悲鳴を感じたら、動けるような保護者であろう。 それをいち早く感じられるのは、 日頃からアンテナを張っているものだけだ。 日頃から、口先でない、 「 しっかり観てるよ 」 「 応援してるよ 」 「 愛してるよ 」 メッセージを行動で示そう。 それが子どもたちに伝わるだけで、随分と違うのではないだろうか。 まだ幼い自我を振り回しているだけのお子たちの絆。 思春期のこころ揺らぐお子たちのこころもとない絆。 毎日毎日の日常のなかで育まれるそれ、を 先生方には、何より大切に見守り、育んで欲しい。 そのために、保護者は、学校へ足を運ぼう。 保護者同士に絆を生み育て、先生方とも絆を生み育て、深めていこう。 お子たちが、伸び伸びと健やかに育つよう。 そのために、PTAでできること、山ほどある、と思う。 そのための、PTAだと、私は思う。 ここにこそ、PTAの意義も意味も在る。 ひとりでも多くの保護者に足を運んで貰えるよう。 そんな雰囲気づくりを、学校と共に。 仕事を持つおかあさん方も、みんなが 参観日や懇談会、PTA活動に参加できる職場=社会に私たちが変えていく。 そんな決意や気概を持とう。 子どもたちは、幼い自我をぶつけあいながら、社会のルールを学んでいくのであり、 悪いことをすれば、皆から非難、批判されるだろうし、 何かにつけて鼻持ちならなければ、皆からバッシングされたりしていくことだろう。 でも、それは社会に出て行く前に、どういった人間であれば摩擦が起き、或いは受け入れられるか、 身をもって識っていくひとつのプロセス。 それを学ぶのが、同じ世代で閉じている学校だと思う。 けれどそれが、故なき制裁であったり、集団にものを言わせた、 「いじめ」=リンチになってしまっては絶対にならない。 そして何より、私たちは、【評論家】や【傍観者】であってはならない。 【当事者】意識を持とう。 ● 自分のせいで、クラスメイトが転校したら。。。 ( 2006/12/03 ) ● アルマイト食器考 ( 2006/12/04 ) ジャンル別一覧
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